「霊界にも組織的な反抗勢力の集団がいるのでしょうか」――の問いに対するシルバーバーチの答えの中で、スピリチュアリズムの敵は地上だけでなく、霊界にもいるという事実が明かされた。シルバーバーチはこう答えたのである。
「いるのです。それがわれわれにとって悩みのタネの一つなのです。組織的反抗といっても、聖書にあるような天界から追放された堕落天使の反乱の話を想像してはなりません。あれは象徴的に述べられたまでです。
残念ながら霊界にも真理と叡智と知識の普及をこころよく思わぬ低級霊の勢力がいるのです。そして、スキあらば影響力を行使して、それを阻止しようとするのです。こうした交霊会のほとんどすべてが、その危険下にあるといってよろしい。ただし、和気あいあいの交霊会――地上のメンバーとこちらの霊団との間の協調関係がしっくりいっているかぎり、彼らのつけ入るスキはありません。
彼らにとって最もつけ入りやすい条件は、交霊会のメンバーの間に意見の衝突があって、雰囲気が乱れている時です。この交霊会も当初はそうでしたが、次第に改善されていきました。
訳注――当初はバーバネル自身が入神させられることを嫌っており、メンバーも奥さんのシルビアのほかに心霊的知識のない知人が二、三人といった状態で、シルバーバーチも試行錯誤の連続だったようである。(*詳しくは『霊性進化の道しるべ』巻末のバーバネルの遺稿《シルバーバーチと私》を参照してください。)
霊媒を通して届けられるメッセージに矛盾が多いのは、そのせいです。一種の妨害行為のせいですから、常に警戒が必要です。霊能開発を一人でやるのが感心しないのも、そこに理由があります。たった一人では、支配霊も指導霊も、邪霊やイタズラ霊を排除しきれないからです。
霊界というところは、一度は地上で生活したことのある人間(霊)で構成されていると考えてよろしい(※)。決して聖なる天使ばかりがいるわけではありません。霊性の粗野なものから至純至高の高級霊にいたるまで、実にさまざまな霊格をそなえた、かつての人間のいる世界です。みんな地上世界から来た者です。ですから、地上世界のすべての人間が清潔で、無欲で、奉仕的精神で生きるようになるまでは、霊の世界にも厄介な者、面倒を見てやらねばならない者が何割かはいることになります。そういう次第なのです」
※――地球に霊界があるように各天体に霊界がある。当然、太陽にも霊界があり、太陽系全体としての霊界があり、銀河系星雲にも霊界がある。さらに何段階もの霊界があって、最後は宇宙全体の霊界があるのであろうが、そこまでいたると、もはやスペキュレーションの域に入る。地上人類にとっては太陽系が事実上の宇宙であり、シルバーバーチも宇宙とか森羅万象といった用語をその意味で用いている。ここでいう"霊界"も地球の霊界の話である。
レギュラーメンバーの一人「でも、せっかくの計画を台なしにするような厄介者を、あなたほどの方でも、どうにもならないのでしょうか」
「可能なかぎりの手は尽します。しかし、その中には、わたしたちとの接触が取れない者が大勢いることを知ってください。関係が生じないのです。霊性が向上して受け入れる用意が整った時にはじめて、われわれの影響力に触れるようになるのです。
誤解のないようにお願いしたいのは、そうした反抗勢力は本来のわたしたち(上層界の霊)には何の害も及ぼせないということです。彼らの勢力範囲は地上界にかぎられています。霊的状態が地上的波動に合うからです。
ですから、彼らが厄介な存在となるのは、わたしたちが波動を下げて地上圏へ近づいた時です。つまり低級勢力が幅をきかしている境涯へ足を踏み入れた時に問題が生じているだけです」
「この地上世界ですと、面倒ばかり起こしている者がいると、何とか手段を講じて更生させようとしますが、そちらではそういうわけにはいかないのですね?」
「それは、たとえば逮捕して、場合によっては死刑に処するということでしょうが、そういう手段では、こちらの世界へツケを回すようなものです」
「でも、場合によっては過ちを悟らせることによって立派に更生させることができます」
「それが思うようにならない場合もあるのではありませんか」
ここで別のメンバーが「懲役という方法もありますが、これだけでは精神の歪みを正し非行を改めさせることはできません。服役はどうやら矯正手段ではなさそうです。それによって心を入れかえさせることに成功するのは、きわめて稀です」と言うと、シルバーバーチが――
「実は地上世界では、そうした非行の元凶を突き止めるのが容易でないのです。自分はうまくすり抜けておいて、罪を他人におっかぶせることができるわけです。
が、こちらではそうは行きません。霊性の進化に応じた界層にしか住めないのです。地上世界ではさまざまな霊格の者が同じ平面上で生活しております。もっとも、だからこそ良い、という側面もありますが……
いずれにしても、そうした妨害や反抗の勢力の存在をあまり大ゲサに考えるのは禁物です。善性の勢力に較べれば大したものではありません。ただし、存在することは確かです。それよりもっと厄介な存在として、地上時代の宗派の教えを死後もなお後生大事に信じて、それを地上の人間に広めようとして働きかける狂信家がいます」
「それが一ばん厄介な存在ということになるのでしょうか」
CASOS clinicos ·デ·高血圧
「いえ、総体的にみれば大したことはありません。彼らの中で死後の自分の身の上の真相に気づいている者は、きわめて少数だからです。大半の者は地上時代にこしらえた固定した精神構造の中に閉じ込められたまま、一種の夢幻の世界で生きております」
別の日の交霊会で、ローマカトリックの信者からの投書が読み上げられた。その筆者はまずスピリチュアリズムに対するローマカトリック教会としての否定的見解を引用したあと、"しかし、もしも霊界との交信が真実であるとしたら、それは地上人類にとって素晴しいことです"という自分の見解を述べ、さらに"死後存続が証明されれば地上に愛が増え、罪悪と戦争が減ることでしょう"と結んであった。
これを聞いてシルバーバーチはこう述べた。
「今一人の人間が、難しい環境の中で少なくとも微かな光を見出し、これまで真実であると思い込んできたものとの関連性を理解しようと努力している事実を、まず喜びたいと思います。
この方は、疑問に思うことを少なくとも正直に尋ねてみるという行為に出ておられます。この段階まで至れば、真理探究が緒(ちょ)についたことを意味します。どうかこの方に、疑問は徹底的に追求し、証明を求め、証明されたものにしっかりとしがみつき、証明されていないもの、理性が承服しないものは、勇気をもって捨て去るようにお伝えください。
この方に伝えていただきたいことが、もう一つあります。お手紙の中にいくつかの引用文がありますが、この方は本当にそれを信じていらっしゃるのでしょうか。それが果たして真実かどうかの証拠がないものについては、"果たして筋が通っているだろうか"と一度はご自分の理性で疑ってみることが大切です。大霊からの授かりものであるその理性が納得しないものは、そこできっぱりと捨て、いかなるテストにも追求にも検査にも批判にも疑念にも耐えてなお残るものだけを基盤として、自分の宗教を打ち立てるのです。
一つ一つ取り挙げると時間が掛かりますので、例として一つだけ取り挙げてみましょう。この方は"神はモーゼにかく言えり……"という文を引用しておられますが、神がモーゼに言ったことが事実であるという証拠はどこにあるのでしょうか。その証拠がないかぎり、あるいは少なくとも信じてよいと断定できるだけの理由が揃わないかぎりは、それを引用してはなりません。理性による判断はそれからのことです。それに、ついでに言えば、かりにそれが証明されたとしても、一体それが今日の時代に適用できるかどうかの問題もあります。
理性による検査と探求をなされば、かつては真実と思い込んでいたものの多くが、何の根拠もないことがわかり、間違いない事実だけを根拠としてご自分の宗教を打ち立てることになります。それならば、疑念の嵐が吹き荒れても、揺らぐことはありません。知識は岩盤のようなものだからです。その方に、わたしからの愛の気持を届けてあげてください。そして、頑張り通すようにと励ましてあげてください」
続いての投書は女性からのもので、いかに小さな体験にも、行為にも、あるいは言葉にも、思念にも、それなりの影響力があるとのシルバーバーチの言葉を引用して、"では一体どうすれば自分の言動に自信が持てるようになるのでしょうか"というものだった。シルバーバーチが答える。
「その方にこうお伝えください――精神的にも霊的にも自己を厳しく修養し、生活のすべての側面を折目正しく規制し、自分は本来は霊であるという意識をもって、行動のすべてに霊の優位性を反映させなさい、と。
霊の優位性の自覚にもとづく修養的生活――これが最高の生き方です。既成のテキストはいりません。魂の成長ということだけを心がければいいのです。大霊からいただいている霊力が顕現し、人間が勝手にこしらえた教義への盲目的信奉者とならずにすみます」
次の質問は、スピリチュアリズムというものが、ただ単に他界した身内の者との交霊だけに終始して、本来の意義と責任を忘れてしまう危険性はないかというものだった。これに対してシルバーバーチはこう答えた。
「知識の使い道を誤るという問題は常に存在します。何事にも正しい使い方と間違った使い方とがあるものです。これは誰しも直面させられる問題の一つです。
自分の個人的な不幸の慰めを交霊会に見出す人がいることは確かです。そして、悲しむ人がその悲しみを慰められること自体、少しも悪いことではありません。死別の嘆きが軽減され、涙を流さなくなるということは結構なことです。喪の悲しみに暮れる人にとって、交霊会が慰めの場となるのを、いけないことと非難するのはよくありません。むしろ必要なことですし、それがその人にとって人生の大きな転機になることもあります。
問題は、胸の痛みが癒え、涙が消え、陰うつさが晴れ、重荷が軽くなってから後のことです。言い変えれば、死後の存続という知識を手にしたあともなお、いつまでも私的な交信の範囲にとどまっているようでは、これは重大な利己主義の罪を犯すことになります。
それがなぜ罪なのか――互いに慰め合うことがなぜいけないのか――そう問われれば、確かにそれ自体少しも悪いことではないのですが、わたしの考えを言えば――これも例によって一般論として申し上げることで、例外はあるかも知れませんが―― 一人の霊媒を通じての霊界との交信が確立されドアが開かれたなら、他の人々にもそのチャンネルを使用させてあげて、多くの人々を啓発する方向で活用すべきです。
メンタル不全のうつ
三千年におよぶ永い体験によってわたしは、"人を裁くなかれ"という教えが確かに真実であることを確認しております。他人の欠点を指摘することは容易なことです。もっとも、残念ながら、批判されてもやむを得ないだけの条件が揃っているケースもあることは認めますが……。地上の人たちが他人の利己主義に文句を言うのをやめて、自分の欠点を反省し、どうすればそれが改められるかに関心を向けるようになれば、地上はもう少しは進歩することでしょう」
ところで、シルバーバーチの交霊会、正式に言うとハンネン・スワッファー・ホームサークルは、霊媒のバーバネルが入神(トランス)状態に入ることで開会となるが、それに先立って出席者の間である話題について論議が交わされることがある。それをシルバーバーチは霊界で聞いている。やがてバーバネルがトランス状態に入ると、その身体に乗り移ってしゃべるわけであるが、ある日の交霊会に先立って金銭(マネー)の問題が話題になったことがある。やがて入神したバーバネルの口を借りてシルバーバーチがこう語った。
「地上世界で成就しなければならないことは、それを決意した霊性、人間の霊性が原動力となって成就されていくのです。表面的な意識が自覚するとしないとにかかわりなく、内部に秘められた神性の火花が発現を求める、その衝動によるのです。人類の歴史を飾ってきた先駆者はみな、その力を物的なものからではなく、霊的なものから――それは内部からの絶え間ない衝動である場合もあれば、外部からのインスピレーションである場合もありますが――それから得ていたのです。
残念ながら地上世界は、今なお物質万能主義の悪弊から脱け切れずにいます。すべてを金銭的感覚で捉えようとします。財産の多い人ほど偉い人と見なします。人間性ではなく財産と地位と肩書きと家柄によってランクづけします。実際にはまったく永続性のないものばかりです。虚飾にすぎません。実在ではないのです。
本当の価値の尺度は霊的成長度です。それは、その人の生活、日常の行為・言動によって、みずから成就していくもので、それがすべてであり、それしかないのです。お金で徳は買えません。お金で霊的成長は買えません。お金で霊格は高められません。そうしたものは各自が各自の努力で獲得しなければなりません。粗末な家で生まれたか、御殿のような家で生まれたかは、霊的成長には何の関係もありません。
霊的実践の場は、すべての人間に平等に存在します。死んでこちらへ来られると、意外に思えることが沢山あります。地上的な虚飾がすべて取っ払われて、魂が素っ裸にされます。その時はじめて自分の本当の姿を知ります。自分はこうだと思い込んでいたり装(よそお)ったりしていたものとは違います。
といって、わたしは、お金持ちはすべて貧乏人より霊的に劣ると言っているのではありません。そう言うつもりは毛頭ありません。お金は霊的成長とは何の関係もないこと、進化は各自の生活そのものによって決まっていくのであり、それ以外にないことを言いたいのです。困ったことに、地上の人間は、直面する物的問題に心を奪われて、つい間違った人生観をもってしまいがちですが、いついかなる時も、霊的真理を忘れないようにしないといけません。これだけは永続性のある霊的な宝であり、いったん身につけると、二度と奪われることはありません。永遠の所有物となります。
わたしは、霊力が今日のように少数の特殊なチャンネルを通してではなく、当り前の日常生活の一部として、無数のチャンネルを通して地上世界へ注がれる日の到来を、楽しみに待ち望んでおります。その時は"あの世"と"この世"との間の障害物がなくなります。すべての人間に潜在する霊的資質が、ごく当り前のものとして、学校教育の中で磨かれるようになります。生命は一つであるという事実が理解されるようになります。
わたしはそういう世界――地上世界が広大な宇宙の一部であることを認識し、すぐ身のまわりに高次元の世界の生活者を霊視できるような世界――の到来を待ち望んでおります。何と素晴しい世界でしょう!」
ここで質問が出た。
「まったくの赤の他人にスピリチュアリズムの教えを説くにはどうすればよいでしょうか」
これに対してシルバーバーチが「難しい質問ですね」と言うと、司会のハンネン・スワッファーが「それは相手によって違いますよ」と口添えする。するとシルバーバーチが改めてこう説いた。
「人それぞれに要求するものが異なることを、まず理解しないといけません。霊的成長度が一人ひとり異なるからです。ある人は聞かれなくなった声を聞きたい(霊言)と思い、触れられなくなった手をもう一度しっかりと握りしめたい(物質化現象)と思います。今なお愛が続いていることを確認したいのです。そういう人にとっては、自分を愛する人だけが関心の的であり、それはそれなりに、やむを得ないことです。
また一方には、自分の個人的なことよりも、科学的な関心を寄せる人もいます。宗教的観点から関心をもつ人もいます。哲学的な観点から関心をもつ人もいます。まったく関心を見せない人もいます。こうした人それぞれに対応した答え方があります。
わたしたちの側から申し上げられることは、次のことだけです。生命は墓の向こうでも続いていて、あなたは個性をもった霊としてずっと存在し続ける――このことは間違いない事実であり、筋の通ったものであれば、どんな手段を講じてもよいから、わたしたちの言っていることが本当かどうかを試されるがよろしい。最終的には、理性ある人間ならば誰しも納得がいくはずです。理性を欠いた人間には、つける薬はありません、と」
「現代の霊的教訓はイエスの教えに匹敵するものでしょうか」
禁煙介入
「そもそも現代の人たちがなぜ遠い昔の本に書いてあることを信じたがるのかが、わたしには理解できないのです。それが真実であることを証拠だてるものは何一つ存在せず、ただの人間が述べたことの寄せ集めにすぎず、しかも現代にはそぐわない形で表現されているにもかかわらず、それに絶対的な権威があるかのごとく後生大事にしています。実際は、いつの時代にも通用するという保証はひとかけらもないのです。そのくせ、愛する人が生前そっくりの姿を見せ(物質化現象)そして語る(霊言)ことがある話をすると、そういうことは昔の本には出ていないから、という理由で信じようとしないのです」
出席者の一人が「それを信じたら、それまでの信仰を大々的に変更せざるを得なくなるので、しりごみする人がいるようです。それを批難するわけではないのですが、その試金石にあえて立ち向かう道義的勇気に欠けているのだと思います」という意見を述べた。するとシルバーバーチが――
「だとすると、その人は自分を傷つけているだけでなく、自分が愛する人たちをも傷つけていることになります。世の中には、正しい知識を知るよりも嘆き悲しんでいる方がいいという人がいるものです。知識は大霊からの授かりものです。その知識を拒否する人は、自分自身を傷つけることになるのです。"光"を差し出されても、結構です、私は"闇"で満足です、というのであれば、それによって傷ついても、それはその人の責任です」
別の出席者「まず受け入れる用意がいるとおっしゃる理由はその辺にあるわけですね?」
「そうです。わたしの使命には二つの要素があるとみています。一つは純粋に破壊的なもので、もう一つは建設的なものです。永いあいだ人間の魂の息を詰まらせてきた雑草――教会による虚偽の教え、宗教の名のもとに説かれてきた意味のない、不快きわまる、時には冒涜的でさえある教義を破壊するのが第一です。そうしたものは根こそぎ一掃しなければいけません。人生が本来の意義を果たすのを妨げるからです。それが破邪の要素です。
建設的要素は、正しい知識を提供して、受け入れる用意のできた人にとって、それがいかに自然で、単純で、美しく、そして真実味があるかを説くことです。両者は相たずさえて進行します。大切にしている教えの間違いを指摘されると不快な態度を見せるような人は、わたしはご免こうむります。そういう態度でいるとどういう結果になるかを、そちらでもこちらでも、さんざん見てきているからです。
わたしたちにとって、地上世界で仕事をするのは容易なことではありません。しかし今の地上世界は、わたしたちの努力を必要としているのです。どうか、霊の自由と魂の解放をもたらす基本的な霊的真理にしっかりとしがみついてください。精神がのびのびと活動できるようになり、二度と再び、歪んだ、ひねくれた、いじけた生き方をしなくなったことを喜ばないといけません。がんじがらめの窮屈な生き方をしている魂が多すぎます。本来の自我を存分に発揮できなくされているのです。
そこでわたしたちが、無知の牢獄の扉を開くカギをお持ちしているのです。それさえ手にすれば、暗闇の中から這い出て、霊的真理の陽光の中へと入ることができるのです。自由が束縛にまさるのは自明の理です。束縛は間違いであり、自由が正しいにきまっています。教義への隷属を強いる者は明らかに間違っています。自由への戦いを挑む者は明らかに正道を歩んでいる人です。
いかなる人間も、いつかは実在を見出さねばならなくなる時期がまいります。我儘(わがまま)からその時期を遅れさせることはできます。が、永久に避け通すことはできません」
「ということは、人間はすべて――今のところはどんなに品性の下劣な人間でも――そのうちいつかは、霊的に向上していくということでしょうか」
「そうです――永劫の時をへてのことですが……。わたしたちの関心は生命の実在です。影には真の安らぎも幸せも見出せないことをお教えしようとしているのです。影は光があるからこそ存在するのであり、その光とは霊的実在です。無限なる霊の莫大な可能性、広大な宇宙を支配しているだけでなく、一人ひとりの人間に少量ずつ存在している霊性に目を向けてほしいと願っているのです。
本当の宝を見出すのは自分の"内部"なのです。窮地にあって、物的手段が尽きたあとに救ってくれる力は、内側にあるのです。地上の友だちがすベて逃げ去り、自分ひとり取り残され、誰もかまってくれず、忘れ去られたかに思える時でも、背後霊の存在を知る者は、霊の世界からの温もりと親密さと愛があることを思い起こすことができます」
続いての質問に答えて、出席者全員に次のような勇気づけの言葉を述べた。
「皆さんが携わっておられる大いなる闘いは、これからも続きます。こうした霊的真理の絡んだ問題で、意見の衝突や論争が生じるのを恐れてはなりません。いずれは必ず人類の大多数によって受け入れられていくのですが、相手が間違っていることがわかっていながら、論争を避けて大人しく引っ込んだり、妥協したり、口先をごまかしたりすることなく、いかなる犠牲を払っても真理は真理として守り抜くという覚悟ができていないといけません。
結果を怖がるような人間は弱虫です。そんなことでは性格は鍛えられません。霊の世界の道具たらんと欲する者は、迫害されることをむしろ誇りに思うようでなくてはなりません。あらゆる攻撃を、それがどこから来ようと、堂々と迎え撃つのです。胸を張って生き、その毅然(きぜん)たる態度、その陰ひなたのない言動によって、いつでもどこでも試される用意があることを見せつけるのです」
時あたかも春だった。シルバーバーチは春という季節が永遠の希望を象徴するものであることを述べてから、こう結んだ。
「さて、最後に申し上げたいのは、この春という季節は喜ばしい成就の時節だということです。新しい生命が誕生してくるからです。今こそ、まさしく甦りの季節なのです。無数の形態を通して新しい美が息づく時、それは聖なる創造主の見事な芸術をご覧になっているのです。
皆さんは今まさに、自然界の生命の喜びの一つとして定期的に訪れる、新しい創造の夜明けをご覧になろうとしておられます。それには再活性化と、力と、太陽光線の増幅が伴います。絶対的摂理の上に築かれた希望と自信と信頼をもたらす、この新しい生命でご自分を満たされるがよろしい。それは、生命がいかに永い眠りの後でも必ず甦ること、森羅万象を生んだ力は永遠なる存在であること、そして、それと同じものが皆さんの一人ひとりに宿っていることの証(あかし)だからです。
ですから、取り越し苦労や悲観論、うんざりや投げやりの気持などを抱く根拠はどこにもないのです。絶対的な自然法則の確実性に根ざした霊的知識に、すべてをゆだねることです。
大霊の祝福のあらんことを!」
同じく春の季節に行われた交霊会で、次のような、素朴でしかも厳粛さのただようメッセージを述べたことがあった。
「皆さんは今、大自然の華麗なページェントの一シーンをご覧になっているところです。春の美に飾られた大自然をご覧になっているわけです。新しい生命が神なる創造者への賛歌を奏(かな)でているところです。
いずこを見ても、永遠なる摂理の不変性の証にあふれております。雪に埋もれ、冬の暗闇の中で眠りつづけていた生命が目を覚ましはじめます。春の息吹きがいたるところに見られます。神なる園丁(えんてい)が人間には真似ることすらできない腕の冴(さ)えを披露いたします。そしてやがて、つぼみが花と開き、美しさが一面に広がります。
春のあとに夏がつづき、夏のあとに秋がおとずれ、秋のあとに冬がめぐってきます。その永遠のサイクルに進化の要素が伴ってまいりました。これからも進化を伴いつつめぐりつづけます。同じように、皆さんも生命の冬の季節から春を迎え、やがて夏に向かって内部の神性を花開かせてまいります。
こうした規則正しい自然の流れの中に、大霊の働きの確実性を見て取ってください。その大霊の力があなたを通して働くように仕向けさえすれば、言い変えれば、大霊の道具として役立てる用意さえ整えれば、確実な知識にもとづく叡智とともに、豊かな恩恵をわがものとすることができるのです。
地上の人間には失望させられることがあるかも知れません、信頼していた同志から裏切られることがあるかも知れません。国がこしらえた法律や条令によって欺(あざむ)かれた思いをさせられることがあるかも知れません。しかし、大霊は絶対に裏切りません。なぜなら、完全なる摂理として働いているからです。
その働きの邪魔だてをしているのは、ほかならぬ自分自身なのです。自分の無知の暗闇を追い出し、正しい知識の陽光の中で生きなさい。そうすれば、この地上にあって天国の喜びを味わうことができるのです」
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